2008年06月18日

昔話、今回は桃太郎

この前、シンスケの番組で女子大生に伝言ゲームをやらせて本当に最初の意味が通じるのか、という検証をやってた時、シンスケが今だからとちゃいまっせ、昔かあそうなんだたんちゃう?桃から生まれた桃太郎っておかしいやろ、と言っていましたが、桃太郎に出てくる動物をみているとある共通項に気付きます。
これを見ると桃太郎は実際にあったことではなくて作者の創作であることがわかります。
と、いうのは、昔は北東の方角をうしとら(鬼門)、といって恐れていました。ね、うし、とら、たつ、み、は聞いたことありまよね、
これらの十二支図の相関関係でうしとらの反対側に位置しているのが
さる、とり、いぬ、なのです。これらの動物のいる干支の場所を裏鬼門といいます。
つまり、桃太郎は当時の人気作家が書いたであろう絵空ごとであると言えるってことです。
(ちなみに鬼のはいてるパンツはトラ、角は牛を表し鬼門の象徴になっているとか・・、ていうことは鬼も想像上の産物か?)
私はてっきり、赤鬼、青鬼って昔日本に漂流してきた外国人を見て、その異形に当時の日本人がついていけず、鬼、扱いしていたのだとばかり思っていたけど・・・・・、いや、その説は引っ込める必要はないのか、わけて考えよう。今日は書き手が混乱しはじめたのでここまで。

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2008年04月09日

八戸の誇る女性達

前回名前が出てきた羽仁もと子は割と有名だと私は勝手に思ってましたが、
意外と知る人ぞ知る、みたいな、かんじだということを知ったのは
たまたま、会社の休憩室でみのもんたの番組の今日は何の日で羽仁もと子
の話をしてた時、その休憩室にいた全員が羽仁もと子のことを知らなかった
こと。自分が知っている程度のことはみなさん当然承知だと思ってる私には
少なからずショックでした。
羽仁(はに)もと子とは女性初の新聞記者で、さらに今でも書店にいけば並んでいる
「婦人之友」という雑誌を作った人です。
一部に千葉学園を創設した、と書かれている文献がありますが、
それは間違い。(文献を調べる機会が多い私にはこういう文献の間違いが一番怖い)
千葉学園の創立したのは千葉くらという女性。では何故そんな間違った文献があるかと
いうと、千葉くら、なる人物が羽仁もと子の妹だからです。

八戸の女性には知的な女性が多いです。もと子の他にも
世界的オペラ歌手、原信子などもいて、昔の人は女は家にいるものだって
考えが根強そうな気がしますが、八戸の環境は頭の良い女性は結構上京できる環境
というか、進んだ考えをもつ人が多かったらしい。と、いうのは、
川端康成とか、(この人が誰かを説明してくれって言う人はすぐに調べて
来てください。この人を知らないと日本人として恥ずかしいことです。)
大宅(おおや)荘一(この人が誰かを知らない人は多いかもね、この人は
戦後のジャーナリストですが、うーん、何て言えばいいだろ。現代人に一番
わかるのは)「恐妻」、「一億総白痴化」「口コミ」などの言葉を作ったっていえばいいですかね。
私たちの普通に使ってると思っている日本語って案外最近できたものだったりします、よ。
例えば練習問題として「情報」は誰が作った言葉でしょう、なんて所から始めると、そうだったんだ、じゃあ、他に最近できた言葉って何?という入口になるかもしれません。
(みうらじゅんの造語、「マイブーム」も、もう、なくてはならないひとつの日本語として
確立しているしね)

違う、なんだか書いているうちにどんどん、話がズレてきている、
ええと、そうそう、前述の二人(川端康成と大宅荘一)といった知性に優れた、
又、美意識も高かったであろう二人が、それぞれ八戸出身の妻をめとったということからも
八戸の女性は男性のいいなりではなく、ひとりの人間として男性に対して
自分の意見を少なからず言ったであろうことは容易に想像がつきます。

まぁ、何にせよ、羽仁もと子の創刊した婦人乃友は爆発的ヒットを記録しました。
八戸出身の田舎娘の感性なのに都会の主婦たちがこぞって愛読したのです。
これって、地方発、流行の最先端って、田舎から都会で逆輸入みたいなことに
なってしまったんじゃないんでしょうかね。
でもこれって、八戸のリーダーだった人のいうことをの日本のみんなが
雑誌を通していうこときくわけだから日本のリーダーになったってことなんじゃあ
ないかな?
八戸女性列伝でした。







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2008年04月08日

自分のブログにからネットサーフィンをしていくと

変な看板で河童のことを書きましたが、
色々な文献を調べていたらそれにまつわる
面白い話がありました。

櫛引八幡宮のお堂を建てるのに名人、左甚五郎という
大工が江戸から頼まれてやってきた。
その左甚五郎が測り間違った所があり、余分な所に
穴を開け、ヌキを通してしまった。
間違った部分なので川へ捨てようとしたら
捨てられようとしていた部分が
「待て、俺は八甲田の山に育ったケヤキの樹だ。
立派なお堂の柱に使われるというからきたのに、
自分が間違ったからって捨てるとはなんたることか」
といったが、左甚五郎は何をいうか、ケツでもくらえ、
とそのまま川へ投げ捨ててしまった。
だからメドツの手は右手を引っ張れば左手が短くなり、
右手を引っ張れば左手が短くなる、という。

ああ、確かに、そんな手の長さが変わる話は
聞いたことがありますね。
ひとつの文献だけじゃ片手落ちというか
色々調べて重ね合わせてというか取捨選択して
ようやく自分の納得したものになるというか、
例えば河童の元は木(木偶)だとは知っていましたが
それがケヤキの樹だっていうのははじめてしりました。




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2008年04月01日

青森のカッパ伝説

青森県には河童がいた!
って言えばいかにも胡散臭いですが、
この看板を見てください。

CA3217721.JPG



これは昔からある看板ですが、いまだに撤去されていません。

メドツ(八戸での河童の古くからの呼び名)はその昔、
左甚五郎が八幡様の本殿を建造する際に使役した木偶人形が変じたもので、
本殿が完成し捨てられる際に木偶人形の
「これから何を食えばいいのか?」
という問いに甚五郎が
「尻でも食らえ」
と答えたために人を襲うようになったのだという。
(尻こ玉を喰らう為に遊泳中の人を襲ったり、水を飲みに川沿いにきた馬がターゲットとされた。)
しかし、あまりに多くの人を襲うので八幡様が使いである鷲にメドツを連れてくるように命じたが、
メドツがそれを拒んだために鷲はメドツを押さえ込み、
血が出るまで頭を突いた。
それでメドツの頭はへこんでいるのだと言う。
で、その物語を刻んだ彫刻が八幡様境内に有るというのである。

河童の頭の皿の解釈まで微妙に違うんだな〜と妙に感心しました。

私のイメージの中での
一般的な河童の皿といえば
水に濡らしておきさえすれば100人力、
頭の皿が乾かないように常に水分補給を怠らない、
どちらかといえば、皿をふせた感じの形のほうが一般的かな、
河童は力が強くて人間相手に相撲をとって遊ぶこともあるが、
もしも負けたら尻子玉をもらってく。(これがよくわからない、
内臓を引き抜いていくってことなんだろうか?)
力は強いが、神様や仏様にお供えをしたご飯をいただいていくと、
河童の神通力は通じなくなり、あとは単純に力比べの相撲になり、
そうなると小柄な河童は案外弱い。といったイメージですかね。

色々な伝説やら、TVからの情報がいりまじっていると思うので
あくまで私個人の勝手な河童考察です。

私がいいたいのはこの看板を撤去しないで脈々と伝説を
子孫に伝えるこの県民性。
他地区から来た人がみたら何、この看板、めどつっていう名前の
変質者でもでるのかしらって感じにとらえかねられない、変な看板ですよね。








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2008年03月24日

南部の始まり

 青森県は大きく分けて津軽地方とと南部地方に分かれるが、
南部とは方角の南を指すのではなく、南部の殿様の領地であった、
ということです。
南部の国は広大で下北半島から上北、三戸、岩手県北一帯、
盛岡から水沢、遠野のあたりまでを南部領として支配していました。
「三日月の丸くなるまで南部領」と歌に詠まれる程、
(三日月の頃に出発して満月になるまで歩いてもまだ南部領だった)
広大だったわけです。
南部地方のはじまりは南部光行からです。

以下はウィキペディアでの紹介のされかたです。
南部 光行
(なんぶ みつゆき、
1165年(永万元年)? − 1236年4月25日(嘉禎2年3月18日)?)
は、日本の平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。
南部氏の始祖。
父は加賀美遠光。母は和田義盛の娘(異説あり)。
通称は信濃三郎、もしくは南部三郎。
治承4年(1180年)、石橋山の戦いで源頼朝に与して
戦功を挙げたため、甲斐国南部牧を与えられた。
このとき、南部姓を称したという。
文治5年(1189年)、奥州藤原氏の討伐で戦功を挙げ、
陸奥国糠部郡などを与えられた。
建久元年(1190年)には頼朝に従って上洛し、
その後、奥州の領地に三戸城を築城したが、
自身は奥州にはほとんど赴かず、鎌倉に在住した。

死没年には建保3年(1215年)11月21日、
嘉禎2年(1236年)3月18日など様々な説があるが、
嘉禎4年(1238年)2月に将軍・九条頼経に従って上洛した
という説もあり、定かではない
(有力な説は1236年説であり、
頼経時代以後も生きていたかどうかには疑問がある)。
死後、従三位を贈られた。

六人の息子がおり、長男の行朝は庶子のため
一戸氏の祖となり、次男の実光が南部氏を継ぎ、
三男の実長は八戸氏の祖、
四男の朝清は七戸氏の祖、
五男の宗清は四戸氏の祖、
六男の行連は九戸氏の祖にそれぞれなった。

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E5%85%89%E8%A1%8C" より作成

南部光行の先祖は源氏の新羅三郎義光で、
その子孫が甲斐の国に住んでいたので「甲斐源氏」と
呼ばれていました。
ウィキペデェアに書かれていることに
補足すると、
南部性を名乗るようになったのは
父の加賀美遠光から南部の郷、
(山梨県南巨摩郡南部町)を与えられた時からです。








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タグ:青森県 南部
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2008年03月23日

今日は歴史以前の歴史から

まずはじめに、蝦夷と聞いて、何を思い浮かべますか?
大半の方が北海道、中には北海道にに住むアイヌ民族を指す、
と考える人もいるでしょう。

しかし、歴史を語る上において、この蝦夷の解釈を理解して
いないと話が通じなくなるのでその説明から。

まずはじめに「蝦夷地」とは蝦夷(えぞ)と呼ばれた
アイヌの居住地を指す言葉で、江戸時代に使われました。
和人地の対語です。
渡島半島を除く現在の北海道を中心に、
樺太と千島列島を含む。古くは蝦夷国
(えぞのくに)とも称しました。

それに対し、蝦夷とは人の集団を指します。
平安時代には中央の権力が及ばない所は化外の地とされ、
そこに住む未開の人々は蝦夷とさげすみの意味を持つ言葉
をあてられました。
つまり岩手県以北は中央から見れば蝦夷だったわけです。

蝦夷の生活を同時代人が正面から語った説明としては、
659年(斉明天皇5年)の遣唐使と唐の高宗の問答が日本書紀にあります。
それによると、日本に毎年入朝してくる
熟蝦夷(にきえみし。おとなしい蝦夷)が最も近く、
麁蝦夷(あらえみし。荒々しい蝦夷)がそれより遠く、
最遠方に都加留(つがる)があった。
この使者の説明では、蝦夷は穀物を食べず、家を建てず、
樹の下に住んでいた。となっています。
しかし、このような生活は史料にみる他の記述と、
現在の考古学的知見とも矛盾し、
蝦夷を野蛮人と誇張するための嘘と思われます。
信憑性に欠けるこの説明から確実にわかるのは、
都加留(津軽)が固有名をあげられるほどの有力集団として
存在していたことです。

7世紀頃には、蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、
北海道の大部分に広く住み、その一部は日本の領域の中にありました。
658年には阿倍比羅夫が水軍180隻を率いて蝦夷を討っています。
日本が支配領域を北に拡大するにつれて、しばしば防衛のために戦い、
反乱を起こしました。最大の戦いは胆沢とその周辺の蝦夷との戦いで、
780年に多賀城を一時陥落させた宝亀の乱の伊治呰麻呂、
789年に巣伏の戦いで遠征軍を壊滅させた阿弖流為(アテルイ)らの名が
その指導者として伝わります。
日本は大軍で繰り返し遠征し、
征夷大将軍坂上田村麻呂が胆沢城と志波城を築いて征服した、
とあります。

南部の発祥が文治5年(1189年)と言われていますから、
それよりも400年も前の話です。

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2008年03月21日

青森県の歴史

 昨日の一戸、二戸、三戸・・・っていう話が
予想以上に好評
(ブログを書いている人にはアクセス解析ってのがあって、
それでどのページを何人の人が読んだかを知ることが出来ます。)
訪問者数とページビューが違うカウンターなので一人の人が何回も
見た、とかまでわかります。

それでちょっと、まじめシリーズを書き始めようかなって考えていた
やさきに青森県からきたメールマガジンに青森県の誕生っていう
コラムが載っているじゃありませんか!

一応みちのく南部藩のはじまりからとっかかろうかと思っていたの
ですが。これは皆様に紹介しない訳にはいかなくなってしまいました。
下記文章から私の文章ではなくて完全にコピペですので
私に質問されても答えられません。
もしも興味を持って質問をしたい方は
青森県立郷土館、電話017-777-1585までお問い合わせください。


 −=≡ 連載コラム ≡=−
━━━━━━━━━━━━━━━

■ミュージアムあおもり
  〜青森県の誕生(1)〜

 明治維新前の青森県には、大きく4つの大名領(藩)がありました。津軽家ゆかりの弘前藩・黒石藩と、南部家ゆかりの
盛岡藩・八戸藩です。
(図1 青森県の大名領)
http://mailmag.pref.aomori.lg.jp/colum/vol254a.jpg

 慶応4年(明治元/1868)1月3日、会津藩を主力とする旧幕府軍と
薩摩・長州藩中心の新政府軍が衝突し(鳥羽・伏見の戦い)、
大規模な内戦がはじまりました。
いわゆる戊辰戦争です。
明治新政府は会津藩らを討伐することにしました。

 会津藩らに同情的な仙台藩は、東北地方の諸藩と
奥羽越列藩同盟を結成し、新政府に討伐の中止を要請しますが、
聞き入れられず、列藩同盟は新政府と戦うこととなります。
 最新の武器ガトリング砲を駆使した河井継之助(長岡藩家老)
などの活躍もあり、同盟側は激しい抵抗をみせました。
しかし、物量で勝る新政府側がしだいに
優勢になると、列藩同盟の内部では足並みの乱れが目立ちはじめます。

 津軽家では、同盟に参加した後も論争が続き、最後には、
古くからつながりのある近衛家の勧めで列藩同盟を脱退し、
新政府側につきました。
 盛岡の南部家は、官軍に降伏するまで同盟側で戦ったため、明治2年(1869)年に戦争が終わると、新政府から厳しい処罰を受けました。
20万石の領地は大幅に減らされ、一時は白石(現宮城県)に移されます。この年の7月に盛岡への復帰を許されますが、
多額の賠償金を支払わされました。
 八戸藩は同じ南部家ですが、あまり積極的な動きは
見せていません。当時の藩主信順が薩摩島津家からの
婿養子だったこともあり、処罰は受けませんでした。

 盛岡藩の領地のうち、下北郡と三戸郡・二戸郡の一部は、
戊辰戦争で敗れ領地を取り上げられた会津松平家に与えられました。
これが斗南藩です。

 また、現在の上北郡にあたる地域には七戸藩が新設され、
江戸で暮らしていた南部家の一族が置かれることになりました。
 その結果、現在の青森県域には、弘前藩、黒石藩、斗南藩、七戸藩、八戸藩が存在することになりました。(つづく)
(図2 藩の配置・明治2年)
http://mailmag.pref.aomori.lg.jp/colum/vol254b.jpg

ちゃんちゃん。

 次に青森県からメールマガジンがきた時までに私が
文章を流用したことにお咎めを受けていなけば続きが
あるかも知れない不確かな   ・・・・   続く






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2008年03月20日

戸(へ)って?地名

 今日はまじめな話をひとつ。
今、私は八戸市に住んでいます。
この戸という地名、東北本線で青森方面へ進むと
一戸、二戸、三戸の地名を聞きますよね。
一戸から九戸まで全部あるのか疑問を持つ方も多いかも知れません。

地図で見ると一戸、二戸、九戸は岩手県北に、
三戸、五戸、六戸、七戸、八戸は青森の県南にあります。
つまり、四戸だけはないのですが、古い記録には四戸という
地名が登場しています。それによれば、現在の五戸から福地、
八戸の櫛引のあたりにかけての横に細長い地域の地名だったようですが、
長すぎて行政としてまとまりが悪いので合併、統合により
なくなったと推定されています。

地名の由来でもっとも多い俗説は
馬の木戸、昔から南部は馬の産地として有名で
あり、藩政時代には軍馬が育成されていた牧場があったので
その牧場に働く人達の住む村が出来、
その村につけられた数字がそのまま一戸、二戸・・・・
という名前になった、という話。
これは何かの旅行の際にガイドさんがいっていたのを
聞いたことがあります。

一説には鎌倉初期の武将、南部光行の
六人の子息がそれぞれ一戸、三戸、四戸、七戸、八戸、九戸
を支配したのが始まりというのもありますが

南部の殿様の先祖であるこの光行が奥州に赴任する前から
五戸などと呼ばれていたことがわかっているので
戸のつく地名になったのはもっと遡らなければ
なりません。

弘仁2年(811年) - 陸奥出羽按察使征夷将軍に任ぜられ、
爾薩体(「にさったい」あるいは「にさて」)、
弊伊(へい)の2村の蝦夷を平定した
文室綿麻呂(フンヤノワタマロ)が、蝦夷征伐に向かった際の
まぁ、今で言う所のベースキャンプだったのではないか、
という説が有力です。
と、いうのも一戸から七戸までのそれぞれの町、村への距離が
だいたい20キロと平均しているのです。
20キロというと、昔の単位で五里、五里というのは軍隊が
一日に往復できる距離に相当します。
進駐軍が食糧の出来る基地を作り、そこに木の柵をめぐらし、
村づくりをしながら北へ進んだ、というのです。
この柵を「柵戸」と書いて「きのへ」と読むそうで、
これに番号をつけて1のきのへ、2のきのへ、といっていたのが
一戸、二戸・・・のはじまりと考えられているわけですが、
真相は昔の人しかわからない闇の中。
色々、調べたり、想像してみるのも又楽しいじゃないですか。




タグ:伝説
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